昭和五十七年五月十四日 朝の御理解


御理解第二十一節

「信心せよ。信心とは、我が心が神に向かふのを信心と云ふのぢゃ神徳の中に居っても氏子に信なければ、おかげは無し。カンテラに油一杯在っても、シンがなければ火が灯らず。火が灯らねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり」


 今こそ世界は闇の世だと思います。
 本当に、此処に真の信心の光が、どうでも必要な時です。
 まずは、真の信心をさしてもらう者が、心に光を頂かせてもらわねばならん。
 今朝方、私はこんなお夢を頂いた。
 或る人が誰かに、お金をひっかけられた、騙し取られたと云ってるんです。誰から騙し取られたかと聞くと、金子○○と云うんですね。
 そしたら、その方の云う事が、ああそれは神様から取り上げられたったい。とこう云う。
 どういう事か、ちょっとわからんのですけども、金子と云うのはコンシと書いてある。
 金子大明神のコンシ。こりゃ、まあ、合楽的に解釈したのでしょうねえ。
 金子と云う人から、ひっかけられた、と思うておったけれども、それは神様から取り上げられたんだ。と頂く時に腹も立たなければ恨みもない。
 成程、取り上げなければ、取り上げられなければならない、めぐりと云うか、元はちゃんと或るのだと、ね。
 こういう頂き方になる時に、世の中はどんなに素晴らしい事になるか、と思うんですね。
 光とは、そういうような事だと思うんです。
 今の竹内に嫁行っとられます佐田さん所の長女の典子さんが、大学卒業して、しばらく中学校にお勤めさしてもらった。
 まあだ若い先生ですから、中学生ともなると先生の云う事を聞かん訳です。
 聞かん所か、かえってにくじするようになる。
 そういう事が或るもんですから、私もう学校に行かん、と云う。 お母さんが、そげな事云わんな、今日もう一遍、私が親先生にお願いしとくから、兎に角行きなさい、と云うて少し遅くなったけども、わざわざタクシーを呼んでやって学校まで送った。
 お母さんが一緒に行った訳ぢゃないけども、ま、自動車で送った。 所が、典子さんが自動車から降りてきて、自動車の番号を見ると四一五四、と云う番号であった。
 感動したんですね。本当に四一五四とは、良い御用、とね。
 本当に神様から頂いた良い御用を、御用と頂けない所に行きたくない。もう、心が生き生きとはずんできたんですね。
 すると、もう、手の平を返すように子供達が素直に聞いてくれるし、また、先輩の先生方も大変親切にして頂いた、と云う訳なんです。
 これは、合楽の独壇場と云うよりも、誰の上にでも、そういう働きがいつもあってるんですけれども、それをキャッチする心がないんですよね。
 本当に、例えば嫌だ嫌だと云う御用の中には、おかげが頂ける筈がありませんよ。
 ハア、今日もまたこんな御用しなきゃならん。
 口では御用と云いながら、それは御用ではない、ね。
 これが、神様が与えて下さった良い御用だと、頂いた時に心が喜びではずんできた。
 そういう心にならせて頂いた時点で、事態は変わっておった、とこういうのです、ね。
 ですから、この辺の、まあ、これは、昨日もでしたけども、私はちょっと心にかかる事がありました。
 十三日会でしたからね昨日は。そしたら、私の枕許に、見た事もない花が置いてある。手まり子のような大きな紫の花です。
 これは、十三年目に咲く花だ。と云うて親先生のお部屋に、と云うて持って来て下さった、と云う。
 紫のこんなに大きな花なんです。
 それが一輪、こうして大きく。
 それを私の枕許の花台の上に置いてあるんです、ね。
 十三年目に咲く。と云う十三と云うのが私の頭にピンときました。 昨日は十三日ですからね。
 しかも紫の花ですから、もうこれは安心、私の心にかかってる事、そんな事は心配はいらん、と神様が云うて下さってるような気が致しましたが、本当に心の雲が払われるような思いが致したんです。 どうでしょう。
 例えば紫の花とか、十三年目に咲く花ではなくても、または、その四一五四と云ったようなね特別な神様の働きを頂かなくてもね。 そのひっかけられたのが、金子さんではなくってもね。
 本当に神様に取り上げられたんだ。と云うような頂き方ね。
 どんな場合であっても、心が安心。十三でなくても紫ではなくっても、心が安らいでおれるような平常の信心ね。
 そういう信心が出来るようになったら素晴らしい。
 我心が神に向かうのを、と云うのですから、信心の無い人が神様助けて下さいと、こう合掌する気になった時には、神に向うた訳でしょうけども、ね。
 その向うただけではいけない。
 私は此処に思う事はね。
 油一杯あってもシンがなければ火は灯らぬ、とこうおっしゃっとるんですが、火が灯る程々の信心とはどういう信心か、我心が神に向うて進んでいく。
 どこに進んでいくか。生神金光大神を目指して一歩一歩近づいていく。と云うような意味に頂いたが本当だと思うですね。
 我心が神に向こうてすすんでいくのを信心と、真の信心、または信ずる心、と云うふうに頂いてもいいでしょうね。
 我心が神に一歩一歩近づいていく精進、その手立てを御教えによってわからせてもらう。それを合楽ではね、御理念として絶対の教えとして神に向かう手立てが説かれてあるんだ、としていくね。
 今の、四一五四の事も、紫の花の事も、ね。
 金子さんに金をひっかけられた、と云う事も、例えば、それが無くても、良い御用として日々が頂ける心の状態を作っていく事なんだね。
 信心。真心。家業の行。と此処では云われます。
 信心の行ね。心の行。または、家業そのものが行でなかなければならん、と云うのは、その自分の御用に、それこそ我を忘れて打ち込める時、初めて御用と云う事が云える。
 あ、いやだな、また今日はこんな。と云うような時には、もう御用ぢゃない、ね。
 神様のおかげに不平不足を云うておる時ね。
 昨日、正義先生が発表してましたですね。
 久留米の初代は信心辛抱の徳を受けられた。と、こう云われますが、先生、御晩年の頃には、辛抱する事がなかっただろう。と、こう思うですね。
 信心辛抱の徳。と云うのは、そうなんだね。
 いつまでも歯をくいしばって辛抱せなんような事が一生続くような事では出けん。
 始めの間はそうだったけども、段々御神意が分かってくるようになり、神様の働きが分かってくるようになったら、どういう事であってもそれを辛抱しぬいていかれるうちに辛抱の力が出来て、それをさほどに辛抱せんでもね。歯をくいしばるような思いをしなくっても、それを頂いていけれるんだ。と云うのです。
 石橋先生のお言葉の中に、天地神命に不足は云わず。と云うのがあります。
 例えば、そういう信心辛抱のお徳から生まれてきた、これは言葉だと思うですね。
 天地神命。自然の中に起きてくる、その全ての事に不平不足を云わんと久留米の初代は云うておられたそうだが、合楽の場合は、その自然の働きを合掌して受ける。有難く受ける。と云う手立てを教えて頂いておる。と云う事を昨日、云ってましたね。
 ですから、そこまで、至った時に初めて、例えば、そこに紫の花がなくっても四一五四の車に乗らなくてもね。
 それが金子さんがね、○○さんであってもね。
 神様の御働きとして、それに御の字をつけて頂く。
 ひっかけられたのぢゃない、神様に取上げられたんだ、と。紫の花を見なければ、心に安らぎが生まれない。と云うのぢゃなくて、いつも自分の心に平生心。と云うか、安心の心。と云うものがあるような、おかげを目ざしてお互い進んでいくんだ、とね。
 今の世は、闇の世だ。と、まず私共が分からなければならないね。 その証拠に世界中に起きておる。それこそ、暗雲漂うような状態下にあるのが、今日の世界情勢ではないかと、思うのですが。
 そこに、もし信心の光があったら、戦争もなくなるでしょうね。取ったの取られたの、と云う事はいらんもん。
 はあ、神様が取上げて下さったんだ。と頂き方が出来たらね。
 そこに、私は信心の光がなからなければ、世界は闇。そういう心の状態をね。光を頂くべきだと思うね。
 不平不足を云わんのぢゃない。
 むしろ、それを有難く頂く心。それが光。
 そういう光が自分の心の中に、自分の一家に、自分の周辺に、広がっていく、と云う事がね。
 いわゆる光輪の世界。光の輪を広げていく、と云う世界、和賀心時代を、十三日会を放生会を世界方面津々浦々に、と願われる天地の親神様が合楽に現れて今のような言葉で表現しておる訳です。
 世界方面津々浦々に十三日会、神の願いが成就する日をね。
 今、世界どこでも同じぢゃろうと思うですが、十三日と云うのは、世界の悪日のように云われておりましたよね。現在でも云ってますよね。
 大阪講演の時に泊まらせて頂いたホテルには、十いくつのエレベーターがあるんです。一号、二号、三号とかある訳です。
 所が、十三号だけはないです。
 みんなが縁起が悪いと云うて乗らんのですね。だから十二から十四になってる。と云うようにですね。
 それこそ迷信の最たるものでしょ。けれども世界中の者が十三日は悪い、しかもその日が金曜日にでもなっとったら、もっと悪いと云う。私共はどうでしょうね。
 十三日と云ったら神願成就の日として、十三日と云う、その数字だけでも心に安心が頂ける。
 十三年目に咲く花。と聞いただけで心が安らぐね。
 金曜日とでも云うならそれこそ金光様の金の字で有難く受けていけれるのです。それを金曜日はいかんの、十三日は悪日だのと、云うような、そういう思いがね。
 そういう悪い結果を生む、と云う働きがあるんですよ。
 これは、何ち、云うでしょうかね。何か、そういうものがあるんです。
 自分は、一生十字架を背負わなんならん。と思っとるから、ちゃんと十字架を難儀苦労で終わらなんならんです。
 人間の心。と云うものがね。
 心一つで全てを創る。と云うのも、そういう事なんです。
 ああ、十三日は悪い。十三日は悪い。と云う皆の思いとか、念とか、いうものがね。
 なら、十三日に飛行機が墜落した、と云ったような事にも、丁度金曜日ぢゃったげな、と云ったような事もやっぱり、ある訳ですね。けどもこれ、反対に神願成就の日として神光様の金の字、と云うような頂き方したら金曜は最高の金曜日になり、十三と云う日は、それこそ神愛の日として、世界中の人がその事に徹底していってです。はあ、今日は神願成就の日だから、今日は、一家中でね。
 神様へ、神恩報謝の日として一家中の者がね、教会参りでもさせて頂く、と云ったような世の中が広がっていったら、どんなに素晴らしい事に、光と云うのは、そういうものが、本当に伝わっていくと、云う事だと思うですね。
 十三日会。放生会。詫びれば許してやりたいのが、親心、とおっしゃる。どんなに罪業の深い人でも、めぐりの深い人でも、詫びれば許してやりたいのが親心ね。
 放生会と云うのは、そういう意味なんですね。
 神様は助けて下さる。それども、そこに傲慢な、と云うか、詫びる姿勢がない所に難儀をあわなければならないね。
 和賀心時代が、十三日会が、放生会が、世界の隅々に広がっていくようなおかげを願っていく、と云う事が闇の世にいよいよ光を大きくしていく事だ、と思うのですが。
 まずは自分自身の心の中にね。ひっかけられたのぢゃない。取上げられたんだ。と云うような頂き方の出来る心が光だと。
 肉眼をおいて心眼を開け。と云われるが、心の目を開いたらね。それは、そのまま御礼を申し上げねばならない事を私共が、不平に思うたり、不足に思うたり、腹立たしゅう思うたりするのでありますからね、肉眼をおいて心眼を開く、と云う事は、心に光を頂く事ですね。
 真っ暗い中にあるから、怖い思いをしなければならない。
 真っ暗い中にあるから、手さぐりの生活しか出来ない。
 心に光を頂いて、その光を周辺にも広げていく。
 シンなければ、世界は闇なり。
 シンとは、そういうようなシンを此処では教えておられる。と云うふうに思います。
 何と云っても我心がね。
 一生懸命拝んでおりますから、参っておりますから、自分の心が金光様に近づいていきよる。と云うのではなくて、我心が神に向うていく絶対の手立て、それを私は、御理念による信心生活によってですね。有難い、喜ばしい心を持ちながらね。
 はあ、生神金光大神の世界なんか、て云うのは、もう、あられもない行でもしなければ頂けん、と云うのぢゃなくてね。
 家業そのものが、それこそね、行として頂けれるような心の状態で、しかも、楽しゅう、有難う頂いていけれる手立てがね。御理念に説かれてあるのですから、まずは、自分の心に光を頂きたい。
 それを、一家中に、周辺にも広げていきたいね。
 光とはね。それこそ四一五四と云ったような車に、乗らなければ御用と悟れないのぢゃなくて、いつも良い御用であるとして、我を忘れて、その御用に打ち込んでいけれる心の状態が、自分の周辺を灯りにしていく。
 子供達が、云う事を聞いた。周辺の先生方が大変親切にして下さった、と云うような働きにまでなってくる訳なんですね。
 信心をいよいよ進めて、いわゆる我心が神に向うていく信心を、確かに我心が神に向うて云っておるなあ、と云う手答えのある、信心をさせて頂いてね。
 いよいよ心の光を頂いていきたいですね。
                        「どうぞ」